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May 27, 2017

番外編 実用化に至らなかった「幻のジェット旅客機」

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今日は番外編として、「開発に成功しながらも、実用化に至らなかったジェット旅客機の話題」をお届けしましょう。

現在、日本では三菱がMRJという小型旅客機を開発しています。

現在、航空会社へ引渡の前提となる型式証明取得に向けて、過酷なテスト中ですが、「旅客機の実用化」というのは、本当に大変なようです。しかも、実績が乏しいメーカーの場合、仮に型式証明が下りても、売れる保証はありませんので‥

さて、今は無くなってしまった東ドイツ(ドイツ民主共和国、DDR)ですが、社会主義国家の時代は、一応、技術大国でした。

そんな東ドイツが、1950年代にジェット旅客機の開発に取り組んでいたことがあります。

ジェット旅客機の名称は「Baade 152(バーデ 152)」(BB-152、ドレスデン 152、VL-DDR 152、単に152と呼ばれることもあります)。

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ちなみにBaadeという名称は、同機の主任設計者であるBrunolf Baade(ブルノルフ・バーデ)氏の名前に由来するものです。152という数字は、戦前のユンカース社の開発プロジェクト番号から引き継がれていると言う話です。

Baad152は、ドレスデンにあったVEB Flugzeugwerke Dresden(VEBフルクツォイヴェルケ ドレスデン)というメーカーで1956年に製造され、1961年までテストが続けられました。

1956年と言えば、昭和31年。この頃、ジェット旅客機を自力で製造できたというのは、正直、驚きです。

最もドイツは第二次世界大戦中にジェット戦闘機を独自に開発した実績がありますから、技術の蓄積があった訳です。そう考えると、ジェット旅客機の開発も頷けるものがあります。

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この旅客機ですが、翼が胴体の上(高翼)がある上に、車輪が前後に並ぶタンデム式という、かなり変わった格好をしています。

それもそのはず。実はドイツの名門航空機メーカーであるユンカースの技術者が、ソビエト連邦で設計したジェット爆撃機をベースにしているからです。なお、エンジンは、4機(2機をまとめてパイロンで吊す方式)搭載されています。

しかしタンデム式は安定が良くないため、翼端に引き出し式の補助輪を取り付けていました。

同機は、全長31.4メートル、全幅26.3メートル、全高9.0メートルで、ナローボディで通路は中央に1本、座席数は48名~72名、航続距離は2000km程度だったようです。

機体サイズに関しては、現在、三菱が開発中のMRJとよく似ています。

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1号機(登録番号DM-ZYA)は1958年4月にロールアウトし、同年12月に初飛行が行われました。初飛行は無事、成功したのですが、2度目のテスト飛行の際、着陸時に墜落。登場していた全員が亡くなってしまいました。

しかし、飛行テストは2号機(登録番号DM-ZYB)で続けられました。2号機ではエンジンが自国開発のPirna 014になり、エンジンポッドの形状も変更されています。さらに主脚が胴体下から、エンジンポッド後部に移りました。

また、機首のデザインも若干、変更されています。2号機の方が、明らかに実用化を意識した設計変更がなされています。この他、試作3号機(登録番号DM-ZYC)は地上テストだけに使用されたようです。

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飛行テストは1961年初頭にほぼ終了し、当時、東ドイツの国営ナショナル・フラッグキャリア、ドイツ・ルフトハンザ(後にインターフルクに改名)向けに4機の生産に移ることになりました。

ドレスデンの交通博物館には幻のインターフルク塗装の模型が展示されています。DM-SCAという登録番号も入っているところが泣かせます。

商業的に成功したかどうかは別にして、インターフルクで国産のジェット旅客機が運用されれば、西側に大きな衝撃を与えたことでしょう。

ところが、量産開始決定直後、東ドイツ政府は、全ての航空機産業の活動を停止させてしまいます。

当たり前ですが、東ドイツとしては、自国のエアラインだけの運用では生産機数が少数に留まってしまいますから、ソビエト連邦や他の東欧圏諸国への輸出も視野に入れていたようです。

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しかし、当時、東ドイツに多大な影響力を持っていたソビエト連邦は、他国から旅客機を購入する意思はなく、自国の航空産業に多額の援助をしていました。

つまり販路を絶たれてしまったことが、開発中止の要因になった訳です。他にも直接、ソ連から圧力があったのかもしれません。試作機は残念ながら、すべてスクラップにされてしまいました。

皮肉なことに、その後、旧東ドイツのインターフルクは、ソビエト製のジェット旅客機を導入しています。

ドイツ人にとっては、事実上、ソビエト連邦の横やりで中止になったのが面白くないのか、実用化されなかった試作機であるにもかかわらず、地元ドレスデンの交通博物館には、それなりの展示スペースを割いて、模型や図面を展示している他、当時の映像も流しています。

今回、ご紹介した写真は、いずれも同博物館で撮影したものです。

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また、遺棄された胴体の修復プロジェクトが1995年から、ドレスデンのEADS Elbe Flugzeugwerke GmbH(エルベ フルクツォイヴェルケGmbh)で行われています。

Feriは、今から四半世紀前。まだ東西冷戦のまっただ中、東ドイツを何回か訪問したことがありますが、東ドイツの国民は、本音のところではソ連に対して、あまり良い感情をもっていないことを肌で感じたことがあります。

そう考えると、この展示も「ドイツ人の心意気」を示すものとして、頷けるような気がします。

しかし、仮に実用化されたとして、変わった仕様の旅客機が、どの程度、売れたのでしょうね。その点は興味があります。

ところで東西冷戦当時もインターフルクの定期便は、永世中立国であるオーストリアに乗り入れていました。そういう意味では、縁があったことになります。


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