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November 13, 2019

「ベルリンの壁」崩壊、30年に思う

201911120011今日は「ベルリンの壁が崩壊して30年」に関しての雑感です。このブログでも以前、お伝えしたようにFeriは、ドイツ民主主義人民共和国(DDR、東ドイツ)へ何回か入国したことがあります。もちろん、「ベルリンの壁」はもちろん健在で、東西冷戦下でのこと‥

最初に訪問したのは1979年でした。当時、ドイツ連邦鉄道(DB)では本線用蒸気機関車は引退していましたが、東側のドイツ国鉄(DR)では健在でした。この機関車を撮影する目的で、友人とともに訪問したのが最初です。

当時、日本からドイツ民主主義人民共和国へ入国するためには、事前の手続きが複雑でした。まず、同国内で外国人が宿泊できるインターホテルを日本の旅行代理店経由で予約し、バウチャーを発行してもらいます(支払いはドル建て)。

201911120018その後、このバウチャーを添付して、在日ドイツ民主主義人民共和国大使館でビザを発給してもらうというものです。Feriの場合は、ビザの発給も旅行代理店に依頼しました。

その際、入国に当たっての注意事項が書かれたリーフレットが手渡されます。ここには持ち込みが禁止されている品々が列挙されています。

今では考えられませんが、「西側の印刷物(雑誌、書籍など)」、「未撮影のフィルム」もリストに加わっていました。いずれもツーリストならば、必須のアイテム。

国境では厳格なイミグレーションが行われていましたので、最悪の場合、官憲に拘束される可能性がありました。

201911120014ただ、通常は見逃している(黙認している)のですが、当局が怪しい人物と判断した時には、「禁制品を持っていること」が拘束する「正当な理由」になる訳です。予め「罠が仕掛けてある」という訳です。

Feri一行は、まず夜行列車で西ベルリンに入りました。そして、Berlin-Zooから東ベルリンへ入国。当時、東ベルリンに関しては、日帰り観光も可能で、この場合、複雑な手続きは必要ありませんでした。

しかし、Feri一行の場合、その後の行程があるため、入国手続き後、最初に行うことは所持している外貨の申告です。これは外国為替管理法に基づくためで、出国時にも、同様の手続きを行います。

201911120017この差額が、同国内で消費した金額になっていれば問題ないのですが、当時、問題になっていたのが闇両替。同国では主に外国人が利用するドルショップがあり、オストマルクしか通用しないショップと異なり、豊富な商品が並んでいました。

ここはドイツ民主主義人民共和国の国民でもドルを持っていれば利用可能だったため、闇でドルを手に入れたいという国民が多かったようです(今で言うマネーロンダリング)。

そのような行為を取り締まるため、外国からの旅行者には所持している外貨の申告が義務づけられていたのです。

201911120019ちなみに地元の皆さまが利用できるお店は、品物も限られているのか、いつも行列ができていたことが印象的です。

入国した当日はベルリンに滞在。その翌日、列車でDresdenへ向かいました。Berlin-Dresden間も一部の列車は蒸気機関車が牽引していた時代です。

Dresdenでは、日本の援助で建設された高層ホテルに宿泊。このブログでもお伝えしたことがありますが、夕食では同ホテルの日本料理店を利用。

翌日はDresden近郊の狭軌鉄道を撮影してから、当時、大型蒸気機関車が集結していた小さな「鉄道の街」Sallferdへ。余談になりますが、数年前、音楽鑑賞でDresdenを訪問した際、この狭軌鉄道を30年ぶりに訪問しました。201911120015

現在は観光鉄道になっており、周囲の景色も一変しており、時代の流れを強く感じたものです。写真は2014年に訪れた時のものですが、向かって左側は昔の面影を残しているものの、右側は駅や線路も新しくなり、全く別の場所のようです。

Sallferdで現役、本線用蒸気機関車を堪能しましたが、駅の陸橋で写真撮影をしていると地元の方から声をかけられました。曰く、“あなたたちはNorth Koreaから来たのか?”。

当時、ドイツ民主主義人民共和国に来る東洋人は、圧倒的にNorth Koreaの方が多かったようです。もちろん観光ではなく、技術習得などのための留学(派遣実習)です。

201911120016実際、その後、同国の店を見学した際、North Korea製の文房具などを数多く見つけて、両国のつながりが深いことを知りました。
Sallferdで2泊したFeri一行は、国際列車でNürembergへ向かいました。西側ではユーレイルパスを使っていましたが、当然、東側のドイツ国鉄(DR)では使えません。そこで、現地通貨(DM)で国境駅Probstzellaまでの乗車券を購入しました。Berlinでは駅構内を歩いて入国したのですが、今回は列車での出国なので、雰囲気が全く異なります。

国境の駅では、各種検査のため長時間停車します。まず、係員が客室を回りパスポートをはじめとする必要書類のチェックを行います。この時、必要書類が揃っていないと、列車から降ろされて事務所での取り調べというパターンも‥ 

その間、密出国者をチェックするため、列車の下は軍用犬(ドイツ語の命令しかきかないジャーマンシェパード)が巡回しています。列車の周囲は、武装した国境警備隊が取り囲んでおり、物々しい雰囲気。

Feri一行は、Sallferd滞在時、本来、所轄のVOKS POLIZEI(市民警察)に出頭し、滞在許可を得る必要がありました。

201911120020大都市の場合は、ホテルがパスポートを預かり、代行してくれるので、Sallferdの場合も同様だと思い、自分たちで手続きは行いませんでした。

この点を出国時に係員から指摘され、顔面蒼白。ホテルはバウチャー方式なので、領収書などはありません。Feri達が宿泊していたホテル名を係員に告げると、“確認するので、待て”との指示。

列車から降ろされることはありませんでしたが、コンパートメントの中で、不安な一時を過ごすことに‥ しばらくして係員がやって来て、“あなたたちのSallferd滞在が確認できた。次回からはVOLKS POLIZEIで滞在許可を取得するように”という説明を聞き、ほっと一息。

201911120021やがて列車は国境の駅を出発し、西側に入りました。西側に入った最初の駅でも列車はイミグレーションのため停車します。

東から西に来る人はウェルカムなので、係員もフレンドリーで細かい検査もなし。それ以上に印象に残ったのが、赤十字のスタッフが“東ドイツからお疲れさまでした”という感じでお茶を無料配布していたことです。

別にFeri一行は難民ではありませんが、確かに出国の緊張を考えると、この「お茶のサービス」の意味が実感できたような気がします。

それ以降、数回、ドイツ民主主義人民共和国に行きましたが、行くたびに雰囲気が変わってきたような気がします。

201911120013そして、最後に同国を訪問したのは「ベルリンの壁」が崩壊した翌年の1990年8月。急きょ、Berlinを訪れましたが、写真のような「自虐的ともとれる絵はがき」を販売してたのが印象的です。

また、「ベルリンの壁」の「かけら」やVOLKS POLZEIの制帽などを販売していました。また、ドイツ民主主義人民共和国は残っていましたが、事実上、国家はなくなっており、同年10月にドイツ連邦共和国に吸収されました。

Feriが初めてドイツ民主主義人民共和国を訪問してから10年余りで、同国が消滅してしまった訳ですが、正直、当時は信じられない思いで一杯でした。

なお、「ベルリンの壁」崩壊の引き金となったのは、皆さまもご存じのように、1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相がオーストリアとの国境にある「鉄のカーテン」と呼ばれる国境柵の鉄条網を撤去したことがきっかけ。

8月19日、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで、欧州議員オットー・フォン・ハプスブルク氏の主催による「ヨーロッパ・ピクニック」が開催されました。

201911120012これは、秘密裡にハンガリーがドイツ民主主義人民共和国の国民をオーストリアに越境させることを企図したイベント。この集会でドイツ民主主義人民共和国の国民661人がオーストリアへの越境に成功します。

以降、オーストリア経由で出国が出来ると考えたドイツ民主主義人民共和国の国民が、ハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到。ある意味、「ベルリンの壁」崩壊には、オーストリアも一枚かんでいた訳です。

あれから30年。旧ドイツ民主主義人民共和国のエリアも随分変わりましたが、以前、東西格差は埋まりません。最近では海外からの難民や移民流入により、旧東西の対立が激しくなってきているという話も耳にします。

東西ドイツの統一でハッピーエンドになると思ったのですが、その後の30年を見ると、色々と考えさせられることもあります。

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Comments

 私も二回旧東独に入国したことありますが、日本からホテルは予約せず、日帰りビザで東ベルリンに入って、アレキサンダー広場の国営旅行社でホテルを予約していました。その後旅行社の中の警察窓口でビザ発給してもらっていました。
 私は北朝鮮からきたのかと聞かれたことはなく、ベトナム人か?といつもきかれました。Feriさんとは風貌が違うからでしょうか?当時ベトナムからも職業訓練生とう名目でたくさん来ていたようです。そういう人達が壁がくずれてからドイツ語圏に住みついたようですね。少し前は、ベトナム料理はパリが美味いといわれていたようですが、ウィーンのオペラ座近くのベトナム料理屋に入ったら非常に美味しかったので驚きました。

Posted by: Hunger | November 16, 2019 15:07

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