April 22, 2020

壮大だったウィーン地下鉄建設プロジェクト

20200421001興味深いコメントを頂いたので昨日に続き、今日も「ウィーン地下鉄の話題」をお届けしましょう。

ウィーン市は約400平方キロメートルで、人口は19万人弱です。人口では劣りますが、名古屋市を一回り大きくしたような都市です。行政区はウィーンの23、名古屋市は16です。さらに名古屋にも地下鉄が6路線ありますね。

現在、ウィーンの地下鉄は鋭意建設中のU5系統を含めると6路線なので、規模は違いますが、名古屋に近いものがあると思います。

昨日もお伝えしたように、ウィーンでも自動車の増加に伴い、市内交通の再編機運が高まりました。

1968年1月26日、ウィーン市議会は大量交通輸送機関として地下悦U1、U2、U4の建設を決定します。

20200421002その後、数年の間、ウィーンでは、様々な地下鉄建設計画が検討されます。

当時、新規建設路線のU1とU3がウィーンを横断する中心路線として位置づけられており、それを補完する形で、既存インフラを活用した路線(U2、U4、U6)を整備することがコンセプトだったようです。

1970年段前半、ウィーンでは地下鉄中心の街づくりを計画していたようで、地下鉄路線についても、様々なプランが検討されていました。

プランにはE、K、Mなどがあったようですが、1974年には、まだ実現可能性があったのが「Mプラン」(Netzentwurf M)です。

このプランは地下鉄計画初期の出版物などにも掲載されているため、比較的良く知られているプランです。

さて、想定路線図をご覧になると、如何に壮大なプランだったかがわかります。

実際に建設された路線と異なる計画だったこともわかります。U1は支線を除くと現在の路線を踏襲していますが、U3はSt.Max経由でドナウ川の向こう側へ延伸する計画になっています。

20200421005U2に関しては、建設中の区間は別にすると、現在とは全く異なる計画で、北側はOberdöblingへ路線が延びています。また、南側に関してはSt.Max経由でKlein Schwechatまで伸びる路線になっています。

更にU5に加えて、U7という路線も検討されていました。まず、U5は現在の路線ではなく、WestBahnhof-St.Marx間の路線になっています。つまり路面電車18系統を代替えする予定だった訳です。

「幻のU7」はFloridsdorf-Schierlinggrund間の路線として計画されています。途中、U1、U3と接続するように計画されています。U2のSeestadt延伸に伴って26系統という路面電車の路線が新設されましたが、これに近い機能を担っているようです。

20200421003興味深いのは、多数の支線(A線、B線)が計画されていたことです。支線で注目されるのはU4A。現在、建設中のU5に近い路線になっています。

これを見ると、完全に路面電車を地下鉄で置き換えるという意図が明確に感じられます。ちなみに路線図で矢印になっているのは、「更に延伸する計画があった」という意味です。

U3などは、実際にはOttakringまで延伸されましたが、この路線図ではJohanstraßeまでしか実線では描かれていません。逆にU3AがOttakringまでの延伸が示唆されてます。恐らくU3Aは、現在の路面電車46系統を置き換える計画だったのでしょう。

St.MaxはU3、U2、U5という3路線が集まる一大ターミナルになる計画だったことがわかります。

Continue reading "壮大だったウィーン地下鉄建設プロジェクト"

| | Comments (2)

April 21, 2020

地下鉄U2誕生秘話

20200420004先日U2/U4乗り入れプロジェクトをご紹介しましたが、ウィーンの地下鉄には、それ以外にも面白いエピソードが存在します。今日は「U2誕生秘話」をご紹介しましょう。

U2は、リングの外側に沿ってKarlsplatz-Schottenring間が1980年8月30日に開業しました。この間には、現在、Museumsquartier、Volkstheater、Rathaus、Schottentorという4駅が設けられています。

しかし、開業当初、Volkstheater-Rathaus間にLerchenfelder Straßeという駅がありましたが、2003年に閉鎖されました。これは、Volkstheaterのプラットホームを延長に伴い、駅間が短くなりすぎたためです。現在でもプラットホームに遺構は地下に残っています。

20200420003なぜ、このように駅間が極端に短い駅ができた理由には、興味深い背景があります。

1950年代、ウィーンでは奇跡的な経済成長と、それに伴う人口の増加により、自動車の交通量が増大し、路面電車の運行に支障が生じるようになりました。

当時、オーストリアでも日本と同じく、路面電車は「時代遅れの乗り物」と認識されており、やがて廃止されると見込まれていました。そして、1958年以降、自動車が通るスペースを確保するため、路面電車路線のバス転換が進められます。

しかし、バス転換を実施した結果、バスが渋滞に巻き込まれ、思った程、成果が出ないことが判明しました。現在は路面電車、路線バスともに同一運賃ですが、当時は路線バスの方が、運賃が高かったことから、利用者も減少。その結果、路面電車のバス転換は中止されます。

20200420001本来、地下鉄の建設が解決策になるのですが、建設費が高額になるため、反対が強く、建設にふみきることはできませんでした。

その代わりに導入されたのが、当時、ブリュッセルやストックホルムで採用されていた「路面電車路線の一部を地下化する」という「路下電車方式」です。ウィーンでは、U-Straba(Unterpflaster-Straßenbahn)と呼ばれています。

ウィーン市は、1963年、Friedrich Schmidt-Platz(フリードリヒ・シュミットプラッツ)北側からLandesgerichtsstraße・ Secessionstraße(現在のMuseumstraße)の地下に路面電車用トンネルの建設を開始します。

1966年10月8日、全長1.8kmの路面電車用トンネルZweierlinieが開通し、途中、Mariahilfer Straße、Burggasse、Lerchenfelder Straße、Friedrich-Schmidt-Platzの各停留所が地下に設けられました。

20200420002このトンネルは、H2系統(Hernals, Wattgasse-Prater Hauptallee間)、E2系統(Herbeckstraße -Praterstern間)、G2系統(Hohe Warte – Radetzkystraße間)が利用が利用しました。H2、E2、G2系統に共通しているのは、多くの区にまたがって運行されていた点です。

ちなみにH2は1区、2区、3区、4区、6区、7区、8区、9区、17区を結んでいます。

当時の写真を見ると、短い路面電車が使う割にはプラットホームの長さが長い仕様になっていました。これは複数の系統が乗り入れるため、同時に停車できるように配慮したものです。

一時は注目された路下電車ですが、やはり輸送量においては本格的な地下鉄にはかないません。

20200420007このブログでもお伝えしたことがありますが、ウィーンでは、地下鉄と同時にモノレールも比較検討していました。しかし、最終的には景観への影響が少ない地下鉄が採用されます。

1968年1月26日、ウィーン市議会はU1、U2、U4の建設を決定します。U1は完全な新規建設ですが、U2とU4については、既存の施設を活用することで、建設費の削減、建設期間の短縮を図ることになりました。

20200420010U1の建設が1969年から始まり、1976年9月25日、Keplerplatz-Karlsplatz間が開業しました。

U4は、Stadtbahnの路線を活用し、1976年5月、Heiligenstadt-Friedensbrücke間が開業します。

U2/U4プロジェクトの記事でもお伝えしたように、当時、ウィーン市ではU2とU4を使ってリングを結ぶ地下鉄の環状線化を考えていたようなので、H2系統の路線であるHernals方面ではなく、Schottenringへの延伸を計画します。

20200420006今から考えて見ると、路下区間のプラットホームやトンネルに余裕があったのは、もしかしたら将来、本格的な地下鉄化を想定していた可能性もあります。既に完成し、運用されていたZweierlinieのトンネルを南北に延長する形で工事が進められました。

ただ、路下電車と地下鉄では、駅間距離が異なります。路下電車の場合、基本的には地上を走る路面電車の一部区間を地下化するという発想なので、停留所は地上に準じて設置されます。

それに対して、地下鉄は大量輸送を前提としているため、駅間は長くなる傾向にあります。

新しい地下鉄トンネルの建設が完了したタイミングで、E2、G2、H2のトンネル使用を中止し、わずか2ヵ月間でトンネルと駅(プラットホーム)をU2仕様に改修します。

U2はU1に比べると駅が浅い場所に建設されているのは、路下電車の名残と言って良いでしょう。

Continue reading "地下鉄U2誕生秘話"

| | Comments (2)

November 13, 2019

「ベルリンの壁」崩壊、30年に思う

201911120011今日は「ベルリンの壁が崩壊して30年」に関しての雑感です。このブログでも以前、お伝えしたようにFeriは、ドイツ民主主義人民共和国(DDR、東ドイツ)へ何回か入国したことがあります。もちろん、「ベルリンの壁」はもちろん健在で、東西冷戦下でのこと‥

最初に訪問したのは1979年でした。当時、ドイツ連邦鉄道(DB)では本線用蒸気機関車は引退していましたが、東側のドイツ国鉄(DR)では健在でした。この機関車を撮影する目的で、友人とともに訪問したのが最初です。

当時、日本からドイツ民主主義人民共和国へ入国するためには、事前の手続きが複雑でした。まず、同国内で外国人が宿泊できるインターホテルを日本の旅行代理店経由で予約し、バウチャーを発行してもらいます(支払いはドル建て)。

201911120018その後、このバウチャーを添付して、在日ドイツ民主主義人民共和国大使館でビザを発給してもらうというものです。Feriの場合は、ビザの発給も旅行代理店に依頼しました。

その際、入国に当たっての注意事項が書かれたリーフレットが手渡されます。ここには持ち込みが禁止されている品々が列挙されています。

今では考えられませんが、「西側の印刷物(雑誌、書籍など)」、「未撮影のフィルム」もリストに加わっていました。いずれもツーリストならば、必須のアイテム。

国境では厳格なイミグレーションが行われていましたので、最悪の場合、官憲に拘束される可能性がありました。

201911120014ただ、通常は見逃している(黙認している)のですが、当局が怪しい人物と判断した時には、「禁制品を持っていること」が拘束する「正当な理由」になる訳です。予め「罠が仕掛けてある」という訳です。

Feri一行は、まず夜行列車で西ベルリンに入りました。そして、Berlin-Zooから東ベルリンへ入国。当時、東ベルリンに関しては、日帰り観光も可能で、この場合、複雑な手続きは必要ありませんでした。

しかし、Feri一行の場合、その後の行程があるため、入国手続き後、最初に行うことは所持している外貨の申告です。これは外国為替管理法に基づくためで、出国時にも、同様の手続きを行います。

201911120017この差額が、同国内で消費した金額になっていれば問題ないのですが、当時、問題になっていたのが闇両替。同国では主に外国人が利用するドルショップがあり、オストマルクしか通用しないショップと異なり、豊富な商品が並んでいました。

ここはドイツ民主主義人民共和国の国民でもドルを持っていれば利用可能だったため、闇でドルを手に入れたいという国民が多かったようです(今で言うマネーロンダリング)。

そのような行為を取り締まるため、外国からの旅行者には所持している外貨の申告が義務づけられていたのです。

201911120019ちなみに地元の皆さまが利用できるお店は、品物も限られているのか、いつも行列ができていたことが印象的です。

入国した当日はベルリンに滞在。その翌日、列車でDresdenへ向かいました。Berlin-Dresden間も一部の列車は蒸気機関車が牽引していた時代です。

Dresdenでは、日本の援助で建設された高層ホテルに宿泊。このブログでもお伝えしたことがありますが、夕食では同ホテルの日本料理店を利用。

翌日はDresden近郊の狭軌鉄道を撮影してから、当時、大型蒸気機関車が集結していた小さな「鉄道の街」Sallferdへ。余談になりますが、数年前、音楽鑑賞でDresdenを訪問した際、この狭軌鉄道を30年ぶりに訪問しました。201911120015

現在は観光鉄道になっており、周囲の景色も一変しており、時代の流れを強く感じたものです。写真は2014年に訪れた時のものですが、向かって左側は昔の面影を残しているものの、右側は駅や線路も新しくなり、全く別の場所のようです。

Sallferdで現役、本線用蒸気機関車を堪能しましたが、駅の陸橋で写真撮影をしていると地元の方から声をかけられました。曰く、“あなたたちはNorth Koreaから来たのか?”。

当時、ドイツ民主主義人民共和国に来る東洋人は、圧倒的にNorth Koreaの方が多かったようです。もちろん観光ではなく、技術習得などのための留学(派遣実習)です。

201911120016実際、その後、同国の店を見学した際、North Korea製の文房具などを数多く見つけて、両国のつながりが深いことを知りました。
Sallferdで2泊したFeri一行は、国際列車でNürembergへ向かいました。西側ではユーレイルパスを使っていましたが、当然、東側のドイツ国鉄(DR)では使えません。そこで、現地通貨(DM)で国境駅Probstzellaまでの乗車券を購入しました。Berlinでは駅構内を歩いて入国したのですが、今回は列車での出国なので、雰囲気が全く異なります。

国境の駅では、各種検査のため長時間停車します。まず、係員が客室を回りパスポートをはじめとする必要書類のチェックを行います。この時、必要書類が揃っていないと、列車から降ろされて事務所での取り調べというパターンも‥ 

その間、密出国者をチェックするため、列車の下は軍用犬(ドイツ語の命令しかきかないジャーマンシェパード)が巡回しています。列車の周囲は、武装した国境警備隊が取り囲んでおり、物々しい雰囲気。

Feri一行は、Sallferd滞在時、本来、所轄のVOKS POLIZEI(市民警察)に出頭し、滞在許可を得る必要がありました。

Continue reading "「ベルリンの壁」崩壊、30年に思う"

| | Comments (1)

November 14, 2017

謎のテンキーボード

1993080016b

今日は「レンタカーの車内にあった謎のテンキーボードの話題」をお届けしましょう。

当初は列車やバスで各地を回っていたFeriですが、ある年、友人とレンタカーを借りてからは、その利便性に負けて、その後は、夏はレンタカーで移動するようになりました。

今はインターネット経由で簡単にレンタカーを予約できるようになりましたが、昔は、そんな便利なシステムはなく、日本の予約センターに連絡を入れて、予約をとってもらうというのが一般的でした。

今でも、この点だけは同じですが、海外の場合、実際に現地の営業所に到着するまで、どんな車が割り当てられるか、わからないことです。

車種のカテゴリーで予約していますが、実際には、あちらの都合で、一つ上のカテゴリーの自動車が割り当てられることも、よくあります。ただ、一人しか乗らないのに、ミニバンはもったいないですが(燃料代金も含めて‥)。

さらにヨーロッパ大陸の場合、陸続きなので、レンタカーも国を超えてプールしているようで、必ずしも借りた国のナンバーがついた自動車が割り当てられるとは限りません。

今から四半世紀前のことです。日本からミュンヘン行きのJAL直行便が設定されていたことがあります。機種は、当時は一般的だったB747。

1993080016a

当時、ザルツカンマーグートなどを回ることが多かったので、同便を利用し、新しく開業したミュンヘン・フランツヨーゼフシュトラウス空港から旅を始めたことがあります。

フランツヨーゼフシュトラウス空港からレンタカーを借りたのですが、営業所での手続きを行ってキーを手渡された後、係員から“この車にはコンピューターがついている。イグニッションキーを回しただけでは、エンジンがかからない。キーを差し込んでから、車内に取り付けられているキーボードから4桁のPINコードを入力するように”という案内がありました。

そして、“PINコードは絶対に忘れないように”という忠告が‥

さっそくレンタカー専用駐車場へ行くと、割り当てられたのはイタリア・ローマナンバーのフィアットUNO。

以前、イタリアでは自動車の盗難が多いという話を聴いたことがありますし、実際、オーストリアやドイツでレンタカーを借りる際も、“イタリアへ行く予定はありますか?”と質問されることがありました。

恐らく盗難防止のための装置が取り付けられているのでしょう。運転席につくと、通常、カーオーディオがついている場所に「謎のテンキーボード」が後付けされていました。

Continue reading "謎のテンキーボード"

| | Comments (0)

November 06, 2017

番外編 イタリア珍道中(上)

1993080004

先日、酒気帯び運転の話題でも少し触れた「イタリアでの駐車違反」。GRADOという北イタリアにあるマリンリゾートでの出来事でした。

そこで、今日は、GRADOへの珍道中をご紹介しましょう。

1993年夏、イタリア空軍のアクロバット飛行チーム「フレッチェトリコローリ」が北イタリアのGRADOという海岸に面した街でエアショーを行うという情報を、雑誌で入手しました。

実は、日本では例が少ないですが、ヨーロッパでは、夏の時期、マリンリゾートでエアショーが開催されることがよくあります。空軍基地や空港でのエアショーと異なり、展示飛行をする航空機は、別の場所からやって来ますが、海岸の上空で展開されるショーは、なかなか魅力的で、人気があります。

199308

現在のようにインターネットが普及しておらず、リアルタイムで情報を入手することが難しかった時代です。実施の可否もわからないまま、オーストリアから北イタリアのGRADOへ行くことを決めました。出発地点はPuchbergだったので、GRADOまでは約500kmのロングドライブです。

Wr.NwustadtからGrazを経てKlagenfurtへ向かうA2ルートを使いました。全区間がアウトバーンなので、結果としては早く到着できる見込みです。

PuchbergからVillachまで約5時間かかりました。当時は通貨が違うのはもちろん、アウトバーン上の国境検問所も健在です。

イタリア国境でオーストリアシリングからイタリアリラに換金し、検問所を通過し、一路、GRADOを目指します。

GRADOは本土から離れた島で、堤防上の道路で本土と結ばれています。日本の江ノ島のようなイメージですが、島自体は、かなり大きく、島全体が一大マリンリゾートになっていました。実際には大島と小島の二つから構成されていました。

1993080002

ちなみにFeriがGRADOに到着したのは15時30分でした。

しかし、通常、パブリックのエアショーが開催される場合、街中にポスターなどが出ているのですが、一切、ありません。嫌な予感がしましたが、このままオーストリアに戻るのも大変なので、GRADOに宿泊することを決め、地元の旅行代理店に飛び込んで、ホテルをとってもらいました。

バカンスシーズンで込んでいましたが、何とか部屋の確保に成功。ただ、事実上の飛び込みだったので、★★★★という通常では考えられないデラックスホテルDIANAに宿泊することになってしまいました。

GRADOは、街が狭いこともあり、ホテル専用の駐車はなく、ちょっと離れたところにある公共駐車場を利用する仕組みだったことが、後にわかったのですが、到着時は、疲れていたこともあり、そこまで気が回りませんでした。

Continue reading "番外編 イタリア珍道中(上)"

| | Comments (0)

October 31, 2017

「珍品玄関マット」の思い出‥

Img_2016_04_1215

早いもので、10月も今日でおしまいですね。皆さまは、どのような10月をお送りになったでしょうか。最近は「オペレッタの話題」がご無沙汰ですが、ご容赦くださいませ。

また、公私ともに多忙なため、今日は「グッズに関する短めな話題」です‥

以前、オーバーエスターライヒ州に住んでいる友人がウィーンへ来た時、奥さまから頼まれた家庭用品を買うために、5区にあるお店を何軒か一緒に回ったことがあります。

家庭用品全般を扱っている「あるお店」に入り、友人が奥さま希望の商品を探している間、Feriは、店内を観察。昔からグッズ類に興味のあるFeriなので、こういったお店は見ているだけでも楽しいものです。

そこで、見つけたのは「BONJOUR」と書かれた玄関マットです。ウィーンで「BONJOUR」というのも妙な感じですが、これを見て思いだしたのが、「DANKE」の玄関マットです。

このマットは、以前、このブログでもご紹介したことがあるので、古くから、このブログをご覧になっている方はピンとくるかも知れません。

とは言っても、2004年11月の記事なので、写真は再掲しました。その昔、Feriがオーストリアに行き始めた頃、こちらでしか手に入らない妙なグッズが欲しくてたまらない時期がありました。

若かったから物欲が強かったのでしょうかね(笑)。

Continue reading "「珍品玄関マット」の思い出‥"

| | Comments (0)